1.金津祭の運営主体
金津祭は、あわら市金津地区25行政区のうち、金津市街地内の18地区が主体となって運営し、毎年7月、海の日の前日の日曜日を中日とし、前後の3日間開催されます。
祭のメインは大きな武者人形や歌舞伎役者の人形を乗せた山車です。3つのブロックから山車当番となった区から1基ずつの山車が巡行し、18区の本陣を巡ります。各区の本陣においては迎えの気持ちを表すため、古くから伝承されている本陣飾り物を製作して山車をお迎えします。山車が本陣に到着すると、曲太鼓と子供踊りを披露します。(一部は当番区の世帯数が少ないため踊り等ができない区もあります。)
金津祭は参加する地区の区長をはじめ、青壮年団、婦人会、老人会等が一丸となってつくり上げた祭で、祭全体を統括しているのは金津地区区長会です。他に子供たちの踊りを指導する先生方、子供たちのお囃子の指導する金津祭囃子保存会、笛の指導をする夕笛会、三味線の三弦会、前囃子の太鼓を指導・支援する金龍太鼓、市姫太鼓等の多くの方々の協力があって祭が成り立っています。
祭の統括が金津地区区長会であっても、祭本来の精神は神事であり、神や自然への畏敬の念を表すために、各本陣においては祭壇を設けます。祭の日には金津神社の神輿とともに宮司が渡御し、各本陣にて区民の安全と平安を祈ってお祓いを行います。
また、本陣飾り物を伝統文化の面から支援しているのはあわら市、あわら市商工会、あわら市観光協会で、本陣飾り物コンクールを実施することにより、各区の創造意欲を高め、創作技術の向上を図っています。平成25年度よりスタンプラリーも企画され、あわら市ばかりでなく福井県内外に広くPRすることにより、さらに大きなイベントになることでしょう。
金津祭は、金津地区と金津神社さらに祭を支える多くの人達の情熱が注がれ、山車巡行は110年以上、本陣飾り物は130年以上、神輿渡御にあっては260年以上も継承されている伝統文化であります。
2.金津神社の歴史
金津神社は、継体天皇の御勧進で大溝神社といいました。祭神は、神日本磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと)、武甕桘命(たけみかづのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天皃屋命(あめのこやねのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)であります。由緒は古く、平安時代の延暦11年(792年)奈良春日明神の御分神を合祀し、大溝神社とも春日神社とも称しました。
保元元年(1156) 第77代後白河天皇の勅使中納言時実卿と興福寺の宗徒伊豫法眼等が神輿の御供をして御下向になり、神輿は金津神社に御寄付されました。僧侶社人庄官等28人を置いて天下泰平国家豊饒を祈誓し、春秋祭典には郷中16ヶ村へ神輿渡御されました。これが金津祭の始まりです。
天正 3 年(1575) 織田信長に社領を没収され、社殿を初め神輿、神宝など焼失しました。但し、
御神体だけは一部焼失しましたが保存することができました。(現在でも存在しています。)
宝永 4 年(1707) 氏子が協力して社殿、拝殿を再興する。
寛延 元 年(1748) 福井藩主より手鉾、出し物、葵紋提灯の寄進があり、大溝神社は3月11日、春日神社は8月15日と春秋の両度に祭日を定める。春の祭日には神輿の渡御も行われる。
安政 元 年(1854) 3月神輿を新調、古式祭礼の復活がなる。
明治 5 年(1872) 郷村48ヶ村の郷社に加列される。
明治 10 年(1877) 郷社大溝春日神社に改称され、本陣飾り物が復活して始まる。
明治30年(1897) 社殿等を修復し境内を拡張する。山車巡行が始まり、町内巡行を年中行事とする。
明治39年(1906) 御鎮座1100年祭を行う。
昭和23年(1948) 福井大震災により社殿等倒壊する。
昭和24年(1949) 倒壊を免れた町内の市姫神社の社殿を春日山山頂に移転し、市姫神社、金山神社と白山神社を本殿に合祀して、総社金津神社と改称する。
昭和46年(1971) 鉄筋コンクリート造の社殿を造営し、7月18日正遷座する
昭和47年(1972) 6月2日に鉄筋コンクリート造平屋建の社務所が竣工し、祭礼中日を7月20日から6月3日に変更。例大祭は6月2日と定める。
昭和51年(1976) 社務所2階部分を鉄骨造で増築する。
平成 7 年(1996) 7月20日が海の日と制定され休日になったことから、金津祭の中日を7月
20日に戻す。例大祭は7月19日に行う。
平成15年(2003) 海の日が7月第3月曜日(ハッピイマンディ)に変更されたことから、海の日の前日に金津祭の中日がくるように変更される。例大祭は7月19日に行う。
3.金津祭の歴史
従来金津神社の例大祭は7月19、20、21の3日間でしたが、昭和47年(1972年)社殿、社務所の竣工に伴い、金津祭の中日を6月3日に変更されました。例大祭の清祓と浦安の舞の奉納は6月2日に行われるようになりました。
その後、平成7年(1996年)7月20日が海の日と制定されたことから、金津祭も7月20日に戻りましたが、平成15年(2003年)海の日が7月第3月曜日(ハッピイマンディ)に変更されたことから、海の日の前日に金津祭の中日がくるように変更されました。例大祭の祭事は7月19日に行われます。
金津祭は、
① 金津神社の神社神輿の渡御
② 金津地区の南部、東部、西部の3つのブロックから各1基、合計3基の山車の巡行
③ 神社神輿と山車は、各地区の本陣(18カ所)を渡御及び巡行する。
④ 本陣においては、日用雑貨品等を使った飾り物を製作して神社神輿と山車を迎える。
⑤ 本陣では、宮司による御祓と、山車について回る前囃子として曲太鼓と子供踊り等の奉納が行われる。
以上より、祭の多種多様さは全国的に見ても珍しい祭りとなっています。
金津神社の格式
金津神社は、常の神社と違い、「神社本庁献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)神社」という格式を持つ神社であります。
「神社本庁献幣使参向神社」とは、昔の「官幣社」の待遇を受ける神社と考えれば良いかと思います。
福井県内では神社が一千七百余社あり、その内神職が常駐する神社(本務神社)は百二十社、その内の金津神社を含む十五社のみが「神社本庁献幣使参向神社」の格式を持っています。
4.金津祭の担当地区(当番区)
金津地区は25の行政区があり、祭に当番を担っている行政区は18区です。その内訳は、15の地区が山車を、2つの地区は神社神輿を、1つの地区は世帯数が少ないため本陣飾り物のみの参加となっています。
山車は15の地区を南部、東部、西部の3つのブロックに分け、各ブロック内で順番に担当しています。
神社神輿は東部、西部、南部のブロックで1年ごとに担当し、地理的な状況から東部においては旭区が、西部においては稲荷山区が担当し、南部においては各区持ち回りの輪番で行っています。
山車を担当する当番区は、山車と人形の組み立て、前囃子屋台と本陣飾り物の製作、子供太鼓と御囃子の練習、前囃子の曲太鼓と子供踊等の練習が必要となります。
神社神輿の担当区は、神社神輿のかつぎ手(力士)の確保と本陣飾り物の製作となります。
神社神輿並びに山車を担当しない区は本陣飾り物のみの製作となります。
なお、地区内保有の神輿がある区は、子供会等が当該地区内のみ神輿の渡御を行います。
5.金津祭の3日間 (前日祭、中日祭、後日祭の日程)
<前日祭>
金津神社の例大祭には担当区(東部、南部、西部)より選ばれた四人の女子小学生が「浦安の舞」を奉納します。金津祭の日が7月20日や6月3日の時は前日に「浦安の舞」が奉納されていました。現在は7月19日金津神社例大祭日に行われています。
山車の担当区では、金津神社の宮司による山車と区所有の神輿の御祓を受けた後に、地回りとして自分の区内を山車と前囃子、子供踊りを区民に御披露目します。 この時に山車の具合をチェックします。
金津神社の宮司は、山車担当区以外にも各地区の神輿の御祓をします。
平成25年からは、金津神社境内において曲太鼓の競演が行われます。金津地区の曲太鼓のグループのほか、金津祭の練習で育ってきた各地区の青壮年団で構成されたグループが出演して祭を盛り上げてくれます。
「本陣飾り」については、午後から本陣飾りコンクールの審査が行われます。夕刻には審査の結果発表と表彰が行われ、入賞区には見学者が多く集まります。
<中日祭>
①神社神輿
神輿渡御にあたり、御神体を神輿にうつす神事を行った後、宮司を先頭にして神輿当番区のかつぎ手により巡行コースに従い18区の本陣を渡御します。宮司が馬に乗って渡御していた時代もあるそうです。
②山車の巡行
山車の巡行は、事前に各区で検討した上で巡行経路を決定します。3基の山車が巡行コースに従い、各区の本陣を巡行します。18区の本陣を巡行しますが、旭区と稲荷山区については道路状況により山車の巡行ができないので前囃子と子供踊りだけの巡行となります。
山車の列は、
(先頭)担当区所有の神輿←花車・前囃子屋台←本山車(後方)の順です。
一般的には、山車や鉾により道を清め、その後に神様が乗った神輿が練り歩く形が多いのですが、金津祭では神輿が先頭となって巡行します。
<後日祭>
祭の中日までは、来訪した客の接待が主となるので、後日は家族のみで静かに祭の余韻を楽しむ日となります。後日も休日となりますが、祭当番区の人たちや、区の役員の人にとっては祭の精算や後片付けでゆっくり休むことはできません。
以前は、金津神社境内にて山車担当区の子供による踊りや曲太鼓の披露などのイベントが行われていましたが、近年は行われていませんでした。これに変わり、平成25年より前日祭に復活するようになりました。
6.金津祭の山車屋台
金津祭に使用する山車屋台は、南部ブロックに1基、東部ブロックに1基、西部ブロックに3基あります。
山車屋台の上段の広さは 1.8m× 2.4mで、中央に大きな人形が取り付けられます。山車の最高高さは6mになります。四角には金津神社より御祓された御幣(ごへい)を取り付けます。御幣は依り代(よりしろ)とも云われ、ここに神が依り憑(よりつく)ことからつけられたと言われています。御幣を取り付けた時から山車屋台は神聖な場となるため、祭日までは動かしてはならないとされています。巡行する時には、電話線等が人形に引っかからないようにするため架線係(3~4人)がここに乗ります。
下段は上段より一回り小さく、 1.2m× 2.1mで、前方の左右に締め太鼓、中央に平太鼓を置き、小学生の子供2人が本陣間を交代で演じます。その後に三味線が2人正座で、さらにその後は篠笛が2人乗り、合計6人で各本陣間をお囃しします。本陣飾り物に到着しても、御囃子の区切りがつくまでは演奏を続けることになっています。なお、人形を支える芯棒が下段に延びてきていて下段のスペースは狭く、笛を吹く人の尻は半分外へ出た状態となります。
山車の車輪は前方に大輪が2つ、後輪は舵取り用の小さい車輪が1つ、合計3輪で構成されています。車輪が円滑に回るため、車軸にはトリモチを巻きます。最近製作の山車にはベアリングを用いているところもあります。ベアリングを用いた山車は回転が軽いため、巡行には注意が必要です。
7.金津祭の山車飾り
乗車前の注意・確認事項
1.大車輪のクサビが摩擦で薄くなっていないか?また、トリモチが正確に塗ってあるか?
2.前の大綱、後の短綱がしっかり結ばれているか?
3.乗車して安全か?
4.音響設備、照明設備はできるだけ目立たないように成っているか?
5.雨対策はできているか?(特に夕立に注意)
以上確認する。
8.神社神輿と山車の送迎
神社神輿は御神体がお乗りに成る神輿ですので、神輿に人が乗ってはいけません。一方、山車には御神体は乗りませんが、御幣を取り付けることによって神が憑いた乗物となり、この山車に乗り御囃子する人も含めて神様の使いとして、道中や街を清める役目をしています。以上の点を考慮に入れると、神社神輿と山車の送迎のあり方が理解しやすいと思います。
神社神輿の渡御と山車の巡行は、担当の区長を頭として歩みを進めます。これを迎える区の区長は、区境まで迎えに行き、本陣まで案内します。本陣にて前囃子と子供踊り等の奉納が終わると、区境まで見送ります。 なお、一度通った神輿や山車が巡行経路の都合で戻ってくる場合があります。この場合も同様にお迎えとお見送りをします。
神社神輿と山車が同時に入ってきた場合は、神社神輿を優先します。また、行き山車と帰り山車がぶつかった場合には、行き山車が優先となっています。このように祭りのルールが確立していると同時に、当番区以外の区においても送迎のルールを守り、礼儀を尽くすことが求められています。
山車の巡行も宵になると、当番区以外の区は10人程度で同じブロックの山車を迎えに向かいます。区長及び青壮年団長は弓張り提灯を、他の人たちは2つの高張り提灯を持って当番区の夕食で休憩しているところに集合します。山車が宵山となって自分の区に戻る道中は、たくさんの高張り提灯の燈に導かれて、帰り囃子の四丁目(しっちょめ・ひっちょめ)が流れる中をおごそかに進みます。提灯の明かりと人出で祭りは最高潮に盛り上がります。また、提灯の明かりで進む山車は風情のある情景となります。
9.山車巡行と御囃子
山車巡行は、昭和30年頃までは金津神社の西側(現在の「いこっさ」の駐車場附近に3基とも集合し、御祓を受けた後に各々の巡行経路を経て、自分の区の本陣を最終地としていました。
しかし、現在では本陣の数も増え時間も遅くまでかかるため、3基の山車は各々の担当区の本陣より出発します。この時山車で演奏する曲は「行き囃子」です。
「行き囃子」は、山車の人形の場面に合わせた曲目となることが多く、祭りの始まる5月頃より練習します。「行き囃子」は地区によって毎回変わることも多々あります。
また、巡行ルートの関係でどうしても一度通った道を戻る場合があります。このとを「向い山」といい、御囃子も「戻り囃子」として曲目を変える場合もあります。
そして夕食を済ませ、自分の本陣に向けて帰り道に着くことを「帰り山」といい、御囃子の曲目は「四丁目」(しっちょめ)を演奏します。この曲は全ての区で共通の曲目となります。地区によっては、曲目を変えないで毎回同じ曲目をしている場合があります。これを「万年囃子」といいます。「四丁目」は元来、大人がたたくものとされていましたが、今は子供たちがそのままたたいているところが多いようです。
御囃子の曲は、毎年「金津祭囃子保存会」が譜面をつくっています。御囃子の練習は、5月中旬から始まり週3回、各1時間で行います。山車に乗せる子供太鼓(3つ)と三味線は金津祭囃子保存会あるいは三弦会(三味線のグループ)の方が指導します。篠笛は夕笛会の方が指導します。祭りの練習をやることによって、各地区に三味線や笛のできる人の育成も祭の継承には欠かせません。子供太鼓は、道中が長いので最低でも6名以上必要とされています。
今後は、金津祭を代表する曲目を確定し、定番の曲目が流れるようにすることも望まれています。現存する「金津音頭」、あるいは、まだありませんが「金津節」など金津祭を特徴できる囃子の確立が望まれます。
10.山車の人形
金津祭で一番注目を集める山車人形は坂井市三国町の人形師(岩堀氏)に製作していただいています。平成24年までは当番区で何の人形にするかを決めたものを岩堀氏に製作してもらっていました。しかし、平成24年に岩堀氏が急逝されたため、平成25年は、この仕事を受け継ぐことになった兄とご家族の協力で製作していただくことになりました。今後、人形作りの勉強に励んでいただき、立派な後継者になっていただけるよう支援していきたいものです。それとは別に、将来の後継者問題を解消するため、金津地区内での人形製作にチャレンジすることも今後の課題となります。なお、金津祭の人形は三國祭の人形とは別に製作したものです。
表4の金津祭山車人形と御囃子一覧表によると、昭和15年以後の内容が一覧表としてまとめられています。途中で空白のある所は、資料がないため確認できませんでした。福井大震災による火災で多くの資料が燃えてしまっていますので、福井大震災以前の資料をお持ちの方からの資料提供をお待ちしています。
金津神社敷地内
山車格納庫 八日・上八日区(上八日区)
山車格納庫 東部ブロックと十日区
山車格納庫 坂ノ下区
山車格納庫 六日区
11.山車の前囃子と太鼓グループ
金津祭の山車には花車として前囃子がつきます。昭和53年以前は、花車と前囃子の屋台は別々になっていました。また前囃子の屋台は、当初「底抜け」といって、屋台に床がなく歩きながら演奏していました。昭和60年の古区の花車を最後に花車は見かけることがなくなりました。現在では、前囃子のトラックの屋台に花飾りを付けてその名残を見ることができます。
金津祭は、本陣から次の本陣の間の道中は、山車の子供太鼓と三味線と笛による御囃子を演奏しますが、本陣に着くと大人による曲太鼓(前囃子)が奉納されます。すべての本陣で行われるので、48回(18本陣×3山車)の曲太鼓が演じられます。(祭当日は、金津の街中が奉納太鼓で満ちあふれていることになります。)
前囃子は、当番区の区民が和太鼓を練習して演奏します。表5の通り各地区には祭の時のみ太鼓をするグループ(8グループ)と、通年を通して太鼓をしているグループ(7グループ)があります。全部で15グループが金津地区内に太鼓グループとして存在しています。曲太鼓をするグループが狭い地域に16組あることは極めて特異なことといえます。金津祭の大きな特徴で、金津の財産といえるでしょう。
12.金津祭と氏子
金津祭は、金津神社の祭礼として始まったのが今日まで継承されてきました。しかし、金津祭に参加している区は、全て金津神社の氏子(うじこ)であるかといえば、そうではありません。金津神社の氏子でない区も金津祭に合わせて祭に参加しています。市街地にある下八日と坂ノ下は自分たちの神社を持っており、金津神社の氏子ではありません。それでも金津祭に参加しているのは、宿場町として発展してきた金津の中心地であったからと思われます。神社神輿の渡御にあたっては、金津神社の宮司も氏子かどうかの区別なく渡り、お祓いをします。
街が外に広がっていくことにより新しい行政区ができ、氏子でない区が増えてきました。将来の金津祭を考えたときに、祭りの精神は守りながら氏子でない区の人々も交えた新しい金津祭の形態を考えていく必要があるでしょう。
金津神社は、市姫神社、金山神社、白山神社を合祠していますので、これらの神社の氏子は金津神社の氏子に含まれます。
春日神社は、当初より金津神社の元となっています。
空白部は、他の神社がなく直接金津神社の氏子となっている区です。
13.本陣飾り物
(1)金津と本陣の歴史
金津は地名の由来を古代の鉄(金)の集散地(津)に求める説があるほど北陸道の要衝でした。中心部には竹田川が流れ、北陸道は市姫橋(金津大橋)で結ばれていました。鎌倉期から資料にみられ、金津上野は「義経記」の「吹き上げの場」として登場します。朝倉氏時代には家臣団の有力武将であった溝江氏が、この地に館を構え支配していましたが、朝倉氏滅亡後、一向一揆によって滅亡しました。
近世の金津は宿場町として栄え、北金津(十日、八日、坂ノ下、水口 411戸)、南金津(六日、古 140戸)と金津新町(88戸)に分かれていました。<安永2年(1773年)資料> 慶長10年(1605年)頃の「越前国絵図」に「北金津町」とあり、近世初頭から町場でありました。また、おなじ慶長10年に、珠姫の婚儀の御供輿に関連して「越前金津の上野まで参り・・・」(三壺記)とあり、茶屋が金津にあったと推定されます。
福井藩は慶長18年(1613年)に南金津の地に金津奉行所を置き、越前北部の広大な地を金津奉行に委ねました。金津奉行所では行政、司法、警察などの事務を司りました。そして、金津奉行所の周辺には問屋、旅籠、本陣がありました。 本陣の由来は明確なものとして、寛永11年(1634年)の将軍家光の上洛の際に、宿泊予定の邸宅の主人を本陣役に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代制度の発令とともに制度化されました。本陣は大名や旗本、勅使、官、門跡などの宿所として指定された家で、一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえません。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されました。また、本陣につぐ格式の宿として脇本陣がありました。本陣は南金津においては金津奉行所に、北金津は坂ノ下の黒坂宅(十文字屋)でした。
武士は常に戦陣にあることを心がけていて、参勤交代も行軍の体制をとっていたので、その宿泊するところを「本陣」といいました。したがって本陣は大名が泊るにふさわしい玄関に式台付きの建物が選ばれました。宿泊する大名やそれに準ずる高官の名前は高札場に掲示されました。
金津の「本陣飾り物」は元和9年(1623年)江戸幕府が開かれた間もない頃に始まったとされています。これは金津奉行所に来る役人たちをもてなすために、町人が日常生活用品を持ち寄り、飾り物を作ってもてなしたといわれています。金津奉行所は安政4年(1857年)に廃止になります。
金津奉行所がなくなった後も、本陣飾り物は継続して行われたのでしょうが、資料として残っているのは、明治10年(1877年)に本陣飾り物が復活したとなっています。どれくらいの期間が中断されていたのかは不明です。その後、本陣飾り物の美しさやにぎやかさに魅かれ、本陣のない地区でも造られるようになり、祭のにぎわいものの一つとして定着していったものと思われます。本陣作りは390年の歴史がありますが、確かなところでは136年の歴史といえるでしょう。
飾り物を飾った各地区の本陣を一つの社とみなし、祭壇を設け、お神酒をお供えして神社神輿と山車をお迎えします。このように本陣は祭の巡行する人たちの休憩所でもあり、各地区を代表する神聖なる神の存在する場でもあります。
現在では本陣には飾り物があるのが当然と見られていますが、本陣飾りコンクールが行なわれるまでは、本陣とは神の存在する場所であり、祭壇を設け、お神酒と盆栽等だけを飾って山車を迎える区もありました。
このように、金津祭において、本陣の意味が従来の解釈と異なり、各地区を代表する神をお迎えする神聖な場を「本陣」というようになったのも、祭が伝承される中で自然に受け入れられてきたものといえます。金津祭の大きな特徴がこの「本陣」の存在といえます。
(2)本陣飾りコンクール
昭和35年に商工会法が施行され、地域振興事業の一環としてあわら市商工会(当時 金津商工会)主催による飾り物コンクールが始まりました。昭和43年第23回国民体育大会が福井県で開催された時は、国民体育大会金津町実行委員会が主催となって本陣飾りコンクールが行われ、金津町で行われたレスリング競技を飾り物で表現した十日区が第一位となって、当時の坪内町長と、中川福井県知事から表彰を受けました。
現在の表彰はあわら市長、あわら市議会議長、商工会長、あわら市観光協会長、県商工会連合会長、県観光連盟会長、福井新聞社長より7賞が設けられ、審査によって表彰状と副賞が贈られています。コンクールに参加する区には、あわら市商工会より一区につき5万円の補助金が助成されます。審査は前日祭の午後に行われますが、審査基準として下記の視点から評価されます。
① アイディアの視点(創意工夫がある。奇知に富む。話題性がある。)
② 技術の視点(細部にわたり完成度が高い。創意工夫がある。)
③ デザイン(造形美に優れる。配色に富む。)
④ 素材の活用性(復元性に優れる。素材の組み合わせに優れる)
これらの視点から審査し、総合点の高いものから表彰されます。
本陣飾りのルールとしては厳密なものはないのですが、材料として台所用品、ガラス、プラスチック製品、金物類、漆器、陶磁器類で、工作でなく素材を復元することができるように作ることが原則となっています。鉄筋や木で骨組みを作り、これに接着剤で貼り付けることは認められています。
平成25年からは新たな試みとして、本陣飾り物を巡るスタンプラリーが実施されます。また、「本陣飾り」を全国に発信するためと、本陣飾りを伝統行事として保存していくために、あわら市文化財資料館「イコッサ」に本陣飾り展示コーナーが設けられます。その他、JR芦原温泉駅と「イコッサ」間の道中も風情ある散策コースとして整備し、本陣飾り展示コーナーを設ける計画があります。
江戸時代の南金津と北金津 慶長十八年(1613年)頃の図 越前国名跡考より
14.金津祭を保存していくために
(1)金津祭の現況
少子高齢化と核家族化により、金津地区市街地の世帯数が激減しています。特に西部地区の八日区、下八日区は世帯数が30世帯以下となり、脇出区、上八日区も50世帯以下です。gその少ない世帯も高齢者だけの世帯が少なくありません。このような状況の中で、八日区は平成16年と23年と山車を出すことができませんでした。今後も単独で出すことはできないものと推測できます。
山車を出すためには「人」と「お金」がかかります。この問題を解決していくことが、金津祭を保存していくための大きなテーマになっています。
一方、本陣飾り物については各区とも青壮年団を中心として製作しており、世帯数が減少しても年配の方が協力することにより製作に支障をきたすことはないようです。経験と時間的余裕のある年配の方がやることにより技術のアップも図られることもあります。あわら市も他市にはない魅力ある文化を大切にしようということで、本陣飾り物の常設展示場「イコッサ」を建設しました。イコッサばかりでなく街なかにも常設展示場が設置され、見て歩きができる事になっています。今後、新幹線開業に向けた「街づくり」の一環として重要性が増すでしょう。
(2)金津祭の問題点
① 「お金」の問題
近年では山車当番区となると前囃子、子供踊り、人形山車を出すのが一般的となっています。当番区の世帯数にもよりますが、固定経費として約300万円かかります。固定経費の内訳は、人形製作費、前囃子車飾付費、囃子方・踊り子衣装費、車・太鼓等のレンタル費、指導お礼等です。固定経費のほか、当日の食事費等約50~100万円かかります。これらの費用のうちあわら市より金津祭山車保存事業費として山車1基当たり80万円(平成25年実績)の助成がありますが、あとの約300万円程度をなんらかで集めねばなりません。収入の大半は一般の人たちから出していただく祝儀金です。祝儀金を広く集めてはいますが、その元は今まで自分が当番でなかった時に出した祝儀金が戻っているにすぎません。ですから、世帯数の少ない区にとっては1世帯当たりの負担は非常に大きなものになっています。また、小さな区でなくても、個人差により大きいものがあります。このまま祝儀金に頼った祭では、今後の世帯数の減少、世代交代による祭への意識の変化により、収入が減少することが推測されます。
② 「人」の問題
前述したように、世帯数の少ない区においては前囃子、子供踊り、山車巡行のための人は明らかに足りません。必要な人員の半分にも満たない状況です。各区においては、元の住民や孫、友人等に協力を求めて出しています。また、祭を出していない他区からの応援もあります。「人」の問題はそれでも何とか工面することによりやっているのが現状です。「お金」の問題からすればまだ解決方法があります。
(3)保存のための取り組みについて
① 金津祭検討委員会と金津祭特別委員会の設立
「お金」と「人」の問題は10数年前から指摘されてきました。金津地区区長会としては何度か立ち上がりながら、区長任期の壁にぶつかり立ち消えとなってきました。平成17年には「金津祭山車保存会」が発足しましたが、市からの補助金を受け取るだけの団体でしかありませんでした。
平成23年金津地区区長会の強い決意のもとに金津祭検討委員会が設立されました。委員には区長だけでなく幅広く祭に関係する人たちが入って検討してきました。2年間、資料集めと、検討を重ね、24年末に金津地区区長会に提案書が提出されました。区長会ではこの提案書を受けて平成25年に金津祭特別委員会が設立されました。特別委員会では金津祭の保存継承に向けて責任をもった改革案を提示し、実現に向けてあわら市のほか各関係団体と交渉にあたっています。
② 金津祭の今後の方向
金津祭は他市町の祭の祭と違って、神輿渡御、人形山車巡行と本陣飾り物といずれも歴史ある伝統行事です。この大切な伝統文化を金津地区の大きなイベントとして、金津地区全体で支え、継承していかなければなりません。現在は金津祭を担っているのは金津地区25区のうち18区ですが、25区が何らかの協力のもとに保存継承していこうとしています。
歴史ある祭の形態は守りつつ、問題となっている「人」と「お金」については、時代に合わせた考え方で変えていかなければなりません。
金津祭をPRしていくことも大切ですが、見に来た人に満足してもらえる祭、祭を担当している人が満足してもらえる祭のするためにどうしたらよいかを考えていかなければなりません。そのためには当番区の区割りや合併等も視野に入れなければなりません。また、コースの設定も人が集まりやすい方法を考えていかなければなりません。
本陣飾り物についても、常設展示場のさらなる建設を行うとともに、新しい企画として平成25年からはあわら市商工会主催による本陣巡りスタンプラリーを始めました。また、本陣巡りツァーバスも企画され官民一体となった金津祭になろうとしています。
平成26年には北陸新幹線の金沢までの開業が始まります。今後福井県への延伸に向けて、あわら市も変わっていかなければなりません。変化していく基本はにぎわいのある街づくりです。新しい交通網により人が出ていったり、通過するだけとなってはなりません。伝統と文化にあふれた街、人が滞留してくれる街づくりをする必要があります。そのひとつの財産として金津祭を保存継承していきましょう。
祭を動かす人手が少なくなっている事です。私の子供の頃は、子供会に3、40人いましたが、今は10人ぐらいに減っています。実際に山車を出せない区も既に出ています。ほとんどの区は、親戚や他の地区の方々に頼んで協力して頂き今のところ難を凌いでいます。
今の金津祭りは「こじき祭り」「祭りではなくイベント祭り」とか貶し言葉をちょくちょく耳にします。それは、街全体に配布される名簿に昔は区役員、子供、青壮年団の名前しか記載がなかったのがいつの間にか賄い方まで記載され、上り(現金収入)がないと祭りが出来ない状態にあるからと考えられます。
また、お神輿の上に人が乗ったり、各地区本陣前の子供踊りが最近ではアンコールとか声をかけたりして時間を考えない、小さい子供の事を考えられない事が増えてきています。それは何故かと考えますに、金津祭りの定義や目的、ルールがキチット決まってなくあいまいなのです。そして、広く知られていない事です。
続ける為のヒントは過去を知れば解ると思います。歴史ある他地区の祭りを調べると正しいかどうかは立証されると思います。
金津祭りが出来た頃は御神輿の巡行しか行っておりませんでしたが明治に入って山車巡行、戦後・震災後から子供踊りが始まり、自動車の発展と共に底抜けからトラックに、そして、前囃子(お囃子演奏)から前山車(和太鼓演奏)に変わりました。また、花山車は消えてなくなりましたし、子供お神輿巡行も減ってきています。この様に時代と共に変化して来たのが金津祭りです。
続けて行く為には、昔ながらの良い所は残して、決して無理をせず時代や身の丈にあった祭りを行う事だと思います。変える事を恐れる事無く、続ける事が大事と考えます。
祭を続ける為には、もっと勉強して祭りの定義・目的・ルール等を更に明確にして区単位の事業じゃなく、街全体の事業にするべきです。要は、実行委員会(区長会・神社・市・市議会・観光協会・商工会・等の代表者)を立ち上げその下に金津祭り保存会(実行部隊)を編制し、更にその下に各委員会及び担当部所を作り、その委員会には祭りに携わる各種団体を置くべきです。例えば、{総務委員会(神社担当・露天商担当・巡行担当・人事担当)、本陣委員会、神社御神輿委員会、山車委員会(山車制作担当・進行担当・お囃子担当・電線上げ担当・舵担当・等)、前山車委員会(前山車制作担当・和太鼓奏者担当・等)、子供踊り委員会(曲及び踊り振付担当・踊り子担当・等)}。そして、当番区より不足部分に応援要請があれば会がその区にたいしてサポートをし、山車当番区が自らの区民だけでは祭りが出来ない場合はこの会が区名でなく会名で山車を出します。
みなさん、一緒に頑張って、金津祭りを金津の町を盛り上げて行きましょう。
金津祭 は
福井県あわら市指定無形民俗文化財
に指定されました。
新機能
2017/11/6 追加
・皆様からのリクエスト集 を追加致しました。
金津祭り 越前金津武者行列【4K】 と 金津祭 稲荷火炎太鼓八木節(上八日区)2012 です。
2017/08/31 追加
・平成29年 お祭の様子・本陣飾り物の風景 を更新しました。
・平成28年 お祭の様子 内に、武者行列の動画 を追加しました。
2017/07/01 変更
・金津祭の資料 内に、過去のスライドショー動画 を追加しました。 → こちら
・金津祭の資料 内に、過去の本陣飾り物 を追加しました。 → こちら
・平成28年 お祭の様子 内に、平成27年 お祭の様子 を追加しました。 → こちら
・平成28年本陣飾りの風景 内に、平成27年本陣飾りの風景 を追加しました。→ こちら
2015年に金津祭の変遷の出版を記念として、多くの方に金津祭に親しんでいただくためのサイトを制作しました。
金津祭の歴史を分かりやすくご紹介いたします。
2016年に初の福井県あわら市指定無形民族文化財に指定されました。
福井県下最大級の山車とお囃子は見ごたえがあり、県外や海外の方にも高い評価をいただいています。
毎年3台の山車が各本陣(18箇所)に巡行し、その場で生で奏でるお囃子は、一見の価値はあります。体の芯まで響く太鼓の音色と迫力を堪能して頂きたく思います。
また夜になると、山車やお囃子が幻想的に浮かび上がります。その中でのお囃子も魅力のひとつです。
2016年より後祭りに武者行列を開催し、祭の3日間それぞれの特色を楽しめます。
少しでも多くの方に金津祭を知っていただき、皆さんと共に盛り上がり、楽しんでいきたいと願っております。
お問合せ先
芦原温泉駅観光センター
「おしえる座ぁ」 JR芦原温泉駅店
電話番号 0776-73-2290
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